大判例

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最高裁判所大法廷 昭和37年(ク)243号 決定 1965年6月30日

抗告人

K・A

右代理人

武藤正敏

福田耕太郎

相手方

K・B

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告の理由は別紙記載のとおりであり、これに対して当裁判所に次のように判断する。

憲法は三二条において、何人も裁判所において裁判を受ける権利を奪われないと規定し、八二条において、裁判の対審および判決は、公開の法廷でこれを行う旨を定めている。すなわち、憲法は基本的人権として裁判請求権を認めると同時に法律上の実体的権利義務自体を確定する純然たる訴訟事件の裁判については公開の原則の下における対審および判決によるべき旨を定めたものであつて、これにより近代民主社会における人権の保障が全うされるのである。従つて、性質上純然たる訴訟事件につき当事者の意思いかんに拘らず、終局的に事実を確定し、当事者の主張する実体的権利義務の存否を確定ような裁判が、憲法所定の例外の場合を除き、公開法廷における対審及び判決によつてなされないとするならば、それは憲法八二条に違反すると共に同三二条が基本的人権として裁判請求権を認めた趣旨をも没却するものといわねばならない(昭和二六年(ク)第一〇九号同三五年七月六日大法廷決定民集第一四巻第九号一六五七頁以下参照)。

しかしながら、家事審判法九条一項乙類三号に規定する婚姻費用分担に関する処分は、民法七六〇条を承けて、婚姻から生ずる費用の分担額を具体的に形成決定し、その給付を命ずる裁判であつて、家庭裁判所は夫婦の資産、収入その他一切の事情を考慮して、後見的立場から、合目的の見地に立つて、裁量権を行使して、その具体的分担額を決定するもので、その性質は非訟事件の裁判であり、純然たる訴訟事件の裁判ではない。従つて、公開の法廷における対審および判決によつてなされる必要はなく、右家事審判法の規定に従つてした本件審判は何ら憲法の規定に反するものではない。しかして、過去の婚姻費用の分担を命じ得ないとする所論は、原決定の単なる法令違反を主張するにすぎないから、特別抗告の適法な理由とならないのみならず、家庭裁判所が婚姻費用の分担額を決定するに当り、過去に遡つて、その額を形成決定することが許されない理由はなく、所論の如く将来に対する婚姻費用の分担のみを命じ得るに過ぎないと解すべき何らの根拠はない。

叙上の如く婚姻費用の分担に関する審判は、夫婦の一方が婚姻から生ずる費用を負担すべき義務あることを前提として、そのその分担額を形成決定するものであるが、右審判はその前提たる費用負担義務の存否を終局的に確定する趣旨のものではない。これを終局的に確定することは正に純然たる訴訟事件であつて、憲法八二条による公開法廷における対審および判決によつて裁判さるべきものである。本件においても、かか費用負担義務そのものに関する争であるかぎり、別に通常訴訟による途が閉されているわけではない。これを要するに、前記家事審判法の審判は、かかる純然たる訴訟事件に属すべき事項を終局的に確定するものではないから、憲法八二条、三二条に反するものではない。

よつて民訴法八九条を適用して主文のとおり決定する。

この裁判は、裁判官横田喜三郎、同入江俊郎、同奥野健一の補足意見、裁判官山田作之助、同横田正俊、同草鹿浅之介、同柏原語六、同田中二郎、同松田二郎、同岩田誠の意見があるほか、裁判官全員の一致した意見によるものである。

裁判官横田喜三郎、同入江俊郎及び同奥野健一の補足意見は次のとおりである。

婚姻費用の負担義務は、法律上の実体的義務であるから、この負担義務が夫婦の何れに存するかを確定し、その費用の分担額の給付を命ずる裁判は、別段の規定がなければ、事件全体について、訴訟事件として、公開法廷における対審及び判決により為さるべきであろう。(旧人事訴訟手続法七条二項において、夫婦扶養の請求の訴は、婚姻関係の訴に併合し又は反訴として提起し得る旨規定されていた所以も、夫婦扶養の請求の訴は、婚姻関係の訴に併合し又は反訴として提起し得る旨規定されていた所以も、夫婦扶養の請求の訴を通常訴訟として公開法廷における対審および判決の手続によつて裁判さるべきことを意味する。夫婦扶養の請求も、現行民法の婚姻費用の負担請求も本質において異なるところはないと考える)。

然るに、民法七六〇条は、「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する。」と規定し、これを承けて家事審判法九条一項乙類三号は、婚姻費用分担に関する処分を非訟事件手続法に準じ、決定をもつて、審判すべきことを規定する。すなわち、民法および家事審判法は、婚姻費用の分担額の決定は、一切の事情を考慮して裁量的に、後見的立場に立つて、具体的に形成決定すべききこととし、その決定を家庭裁判所の処分に委ねているのである。

右の如く、婚姻費用の分担額の具体的決定を家庭裁判所が一切の事情を考慮して、裁量的に形成決定することは、その性質は正に非訟事件の裁判であつて、訴訟事件として公開法廷における対審及び判決によることを必ずしも必要とするものではないのである。

しかし、非訟事件として、決定をもつて裁判し得るのは、右婚姻費用の分担額の形成決定に止まるのであつて、その前提である婚姻費用の負担義務自体が、夫婦の何れの一方に存するかについて争があり、これを終局的に確定するには、必ず訴訟事件手続により公開法廷における対審及び判決によつて裁判すべきものと解する。従つて、費用分担額を決定する審判は、その前担である婚姻費用の負担義務自体の存否については、既判力を生ずるものではないのである。

そもそも、訴訟事件とするか非訟事件とするかは、単なる立法上の便宜の問題ではなく、実体的権利義務の存否の確定は、飽くまで訴訟手続によるべきものでこれを回避するため、本来訴訟手続によるべきものを非訟事件手続によることは、憲法八二条、三二条により保障された公開法廷における対審及び判決による裁判を受ける国民の基本的権利を剥奪することになり、法律をもつてしても、許されざるところである。従つて、家事審判法の前記規定が、婚姻費用分担に関する処分により、その基礎である婚姻費用負担の義務自体の存在まで、終局的に確定する趣旨のものであるとするならば、前記憲法の規定に違反するものといわねばならない。それ故、立法論として、婚姻費用の負担義務自体について争ある事案については、家庭裁判所は、訴訟事件として、公開法廷における対審及び判決による裁判できるように、法律改正をすることが望ましいと考える。

なお、昭和三六年(ク)第四一九号当裁判所大法廷決定(昭和四〇年六月三〇日)におけるわれわれの補足意見参照。

裁判官山田作之助の意見は次のとおりである。

わたくしは、本件審判を是認した原決定が違憲でないとする多数意見と、その結論を同じくするものであるが、その理由を異にするもので、その次第を次の様に述べる。

本件の如き家事審判法九条一項乙類三号に規定する婚姻から生ずる費用の分担に関する争いは、さきに当裁判所昭和三六年(ク)第四一九号大法廷事件(昭和四〇年六月三〇日決定)において争われたる夫婦の同居に関する争い(家事審判法九条一項乙類一号に規定するもの)と同じく、家庭裁判所の審判事件として非公開非対審で非訟事件の手続を準用して審理、審決されても毫も違憲でないのみならず、その審決事項に対しては後日これを通常裁判所に出訴し得ないとするものであつて、その理由の詳細は、前記大法廷決定におけるわたくしの意見として詳述してあるので参照されたい。

尚一言左の点を附加する。

これ等の争いは、何れも家族団体内部における構成員間の権利義務の争いであり、その権利義務たるや、家族団体の存在ということを前提として存在するのであつて(たとえば、離婚の訴は家族団体より分離を目的とするもので、家族団体内部の問題とは性質を異にする。)、普通の貸金債権の如き権利とはその性質を異にしているのみならず、これが具体的内容に至つては、夫婦間の微妙なる関係、家族団体内部の信頼関係等に影響されること多く、従つてその内容も多岐多様にして、これを具体的に確定するには、社会的、経済的、倫理的見地に立つて国家が後見的おん密裡に介入すべきもの多く、裁判官がその裁量に基づき形成的に定むべき必要も多々あるのであつて、これ等の争いを対審公開の法廷で争わせることは、いわば、衆人環視の家庭内の諸事情をさらけ出さなければならないということになり、そのこと自体、当事者がねがう権利の保護を求めるということに反することとなるのみならず、憲法の保障する裁判を受ける権利を実際問題として阻害するおそれなしとしないのである。されば本件の多き、家族団体の存在を前提とするその構成員たる家族間の争いの如きは、その性質上、家庭裁判所の審判事件として非訟事件手続に準じて審判させることを適当とするものといわなくてはならない。そしてそれが憲法三二条および同法八二条に違反しないものであることについては前示大法廷決定においてわたくしの述べているところである。

裁判官横田正俊の意見は、次のとおりである。

私は、本件抗告を棄却すべきものと思料するが、家事審判法九条一項乙類三号の審判が憲法八二条、三二条に違反するものでないことの理由については、多数意見とは見解を異にし、田中二郎裁判官の意見に同調する。そして、民法七六〇条に定める費用の分担および家事審判法九条一項乙類三号の処分には、審判時より遡つて過去の分についてのそれが含まれるものと解することは、民法の右規定および家事審判制度の建前が、婚姻関係の存続を前提とするかぎり、夫婦間の婚姻費用に関する争は、一切これを家事審判法による審判に委ね、後見的な立場に立つ家庭裁判所の具体的事案に即した裁量的形成処分にこれを委ねる趣旨と解することとなんら背反するものではなく、むしろ、そのように解してこそ、よくこれを諒しうるものと思料される。

裁判官田中二郎の意見は次のとおりである。

多数意見は、「家事審判法九条一項乙類三号に規定する婚姻費用分担に関する処分は、民法七六〇条を承けて、婚姻から生ずる費用の分担額を具体的に形成決定し、その給付を命ずる裁判であつて、家庭裁判所は夫婦の資産、収入その他一切の事情を考慮して、後見的立場から、合目的の見地に立つて、裁量権を行使して、その具体的分担額を決定するもので、その性質は非訟事件の裁判であり、純然たる訴訟事件の裁判ではない」とし、「従つて、公開の法廷における対審および判決によつてなされる必要はなく、右家事審判法の規定に従つてした本件審判は何ら右憲法の規定に反するものでない」といい、本件抗告を棄却すべきものとしている。

右に引用した限りにおいて、私の意見に、多数意見と何ら異なるところはない。ところが多数意見は、右にあげたような婚姻費用の分担に関する審判と、その前提たる費用負担義務そのものに関する争とはこれを区別すべきものとの見地に立ち、「婚姻費用の分担に関する審判は、夫婦の一方が婚姻から生ずる費用を負担すべき義務あることを前提として、その分担額を形成決定するものであるが、右審判はその前提たる費用負担義務の存否を終局的に確定する趣旨のものではない」とし、「これを終局的に確定することは正に純然たる訴訟事件であつて、憲法八二条による公開法廷における対審及び判決によつて裁判さるべきものである」といい、「本件においても、かかる費用負担義務そのものに関する争であるあぎり、別に通常訴訟による途が閉されているわけではない」とし、「要するに、前記家事審判法の審判は、かかる純然たる訴訟事件に属すべき事項を終局的に確定するものではないから、憲法八二条、三二条に反するものではない」と結論している。すなわち、多数意見は、家事審判法の審判が違憲でないことの根拠を費用負担義務そのものに関する争については、別途に、通常訴訟の途が開かれている点に求めているのである。

私は、右の多数意見の理由づけについては、さきに当裁判所昭和三六年(ク)第四一九号大法廷事件(昭和四〇年六月三〇日決定)について述べたのと同様の趣旨で、到底、賛成することができない。

まず、私の結論を述べると、次のとおりである。夫婦の婚姻費用の分担に関する民法の規定及び家事審判制度の建前を総合して考えると、夫婦関係の存続を前提とする以上、夫婦が婚姻から生ずる費用を分担するという基本的法律関係そのものは、民法七六〇条の明記するところで、あえて訴訟によつて確定するを要しないのであつて、法の建前は、婚姻費用に関する争は、一切、これを家事審判法による審判に委ね、公開の法廷における対審及び判決による訴訟を認めない趣旨と解すべきであり、このような争については、その事柄の性質上、右のような建前をとるだけの十分な合理的根拠が認められるのであるから、このような建前を採用したからといつて、決して憲法八二条、三二条に違反するものではない、と私は考える。その理由の詳細は、別に前記引用の決定について述べたから、それを参照されたい。ここでは、問題の重要性に鑑み、その趣旨を本件に即しつつ、若干敷衍して述べることとする。

一  民法七六〇条には、「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する」と規定し、家事審判法九条一項乙類三号は、右の規定を承けて、家庭裁判所が婚姻から生ずる費用の分担に関する処分についての審判を行なうことにしている。すなわち、民法七六〇条の規定と家事審判法の右の規定とは、相俟つて、婚姻費用の分担については、その一切の争を、後見的な立場に立つ家庭裁判所の裁量的形成処分に委ねる趣旨と解すべきである。このような建前をとつたのは、夫婦関係の存続を前提とする限り、婚姻費用分担の問題は、夫婦生活共同体内部の微妙な問題であるから、そのプライパシーを尊重確保しつつ具体的事案ごとに、家庭裁判所の適切妥当な裁量的判断に委ねることが望ましく、事柄の性質上、一般の訴訟事件のように、公開対審の訴訟構造によることを適当としないからにほかならない。

ところが、多数意見は、費用負担義務そのものの争と、費用負担義務の存在を前提とする費用分担額の争とを区別して、前者については、公開・対審の原則による通常訴訟の途が認められなければならないとするのである。私は、右の二つの場合を区別すべきものとする考え方を理解することができない。多数意見のいう費用負担義務そのものに関する争とは、どういうものを指すのであろうか。若しそれが、婚姻関係の不存在の主張又は婚姻無効若しくは離婚の主張を前提として、費用負担義務そのものの不存在を主張する場合を指すのであれば、そのような前提事項そのものについては、通常訴訟の途が開かれており、また、当然、開かれていなければならないであろう。しかし、婚姻関係の存続を前提とする以上――婚姻関係の存続を前提としてはじめて婚姻費用の分担ということが問題となる――婚姻費用の分担に関する争については、多数意見の述べるような二つの場合を区別して考える余地はないのではないかと思う。審判の結果は、時には、具体的な事情のもとに、夫婦の一方について、費用分担義務なしとの判断の下されることもあり得るであろう。しかし、それは、家庭裁判所が夫婦の資産、収入その他一切の事情を考慮して、分担額を零とする判断を下したまでのことであつて、この場合の判断も、費用負担義務の内容に関する審判にほかならない。若し多数意見のいうところが、費用分担義務なしとの家庭裁判所の審判があつた場合に、相手方に対し、通常訴訟によつて、これを争う途が開かれていなければならないという趣旨であるとすれば、審判に不服のある者は、常に通常訴訟の途を選ぶこととなるを免れず、審判は、常に通常訴訟によつて覆される可能性を有することとなり、家事審判制度を設けた趣旨を半ば没却することになるおそれがある。

なお、右の点に関連して、横田(喜)、入江、奥野三裁判官の補足意見にも触れておかなくてはならぬ。右の補足意見は、「非訟事件として、決定をもつて裁判し得るのは、右婚姻費用の分担額の形成決定に止まるのであつて、その前提である婚姻費用の負担義務自体が、夫婦の何れの一方に存するかについて争があり、これを終局的に確定するには、必ず訴訟事件手続により公開法廷における対審及び判決によつて裁判すべきものと解する。従つて、費用分担額を決定する審判は、その前提である婚姻費用の負担義務自体の存否については、既判力を生ずるものではない」という。この意見には、種々の問題が含まれている。

右にいう婚姻費用負担義務自体について争がある場合というのは、どういう場合を指すのであろうか。また、いつたい、夫婦関係の存続を前提としながら、夫婦の一方に婚姻費用負担義務がないということを終局的に確定する判決を求め得べきものであろうか。仮りに夫婦の一方が勝手に家を飛び出し、しかも相手方に対し、婚姻費用の分担を求めるがごとき、一見、権利濫用ともいうべき場合を想定してみても、夫婦関係の存続を前提とする限り、通常訴訟で、婚姻費用負担義務がないことを終局的に確定するごときことは、恐らく法の全く予定しないところ――民法七六〇条の規定に正面から衝突する――であつて、家事審判制度の創設は、このような場合を含めて、家庭裁判所が具体的な事情を総合的に考慮し、適切妥当な――時には費用分担額零というような――判断を下すことを期待していると解すべきではなかろうか。

要するに、多数意見は、婚姻費用の分担に関する審判と、その前提になる婚姻費用負担義務そのもの「補足意見にいう婚姻費用負担義務自体)とを区別して考えているが、この考え方がそもそも問題なのである。夫婦関係の存続を前提とする限り、婚姻費用負担義務そのものの存在は、法律の明定するところで、その義務の具体的内容は、すべて、家庭裁判所の審判による裁量的形成処分にまつべきであるというのが、現行法の建前とするところであると、私は考える。そして、この審判に、判決のような既判力を生ずるものではないことはいうまでもない。また、親族法も一新し、家庭裁判所の創設をみ、法制全体の建前が改まつた今日旧人事訴訟手続法の支配した時代の考え方をここに持ち込むことの妥当でないことは、松田裁判官の意見に明らかにされているとおりである。

二  右のような私の考え方は、憲法八二条、三二条に牴触するであろうか。私は、右のような審判制度を設けたからといつて、決して憲法に牴触するものではないと考える。

そもそも、現行法が婚姻費用負担義務に関する争を家庭裁判所の審判に委ねているのは、さきに述べたように、夫婦関係の存続を前提とする限り、問題は倫理的な夫婦生活共同体内部の問題であるから、微妙な夫婦間の内部事情を公開の法廷に曝け出し、ひいては、婚姻関係そのものを破綻に導くような危険を避け、家庭裁判所の専門家によつて、夫婦の資産、収入その他一切のフアクター(どういう事情で別居しているか等を含めて)について、客観的かつ公正に調査し、具体的に適切妥当な判断をさせるためであつて、このような事柄の性質に鑑み、かような審判制度を設けることには、十分、合理的な根拠が認められるのである。反面からいえば、このような夫婦生活共同体の内部の倫理的性格の強い微妙な問題は、もともと、通常訴訟に親しまない問題であるから、この種の問題について、通常訴訟の途が閉ざされ、公開対審の原則が認められないからといつて、決して、憲法八二条、三二条に違反するものとはいえないであろう。なお、この点の理由づけについては、別に、夫婦同居義務に関する審判について私が述べたところが、大体、そのままあてはまるから、前記決定についての私の意見を参照されたい。

三  なお、民事事件と非訟事件との区別・限界は、必ずしも明確とはいえず、具体的な事件がその何れに属するかについては、疑問の生ずる余地が少なくない。私も、家事審判法九条一項乙類に掲げている事項のすべてが、純然たる非訟事件であつて、通常訴訟に親しまない、とまで考えているわけではない。また、法律の規定をもつてしさえすれば、どのような事項でも非訟事件として取り扱うことが許されるというわけでないことももちろんである。殊に、例えば、推定相続人の廃除等のように、基本的人権の侵害につながるような事項については、通常訴訟の途を開いておくことが憲法上の要請であると解すべきであろう。しかし、家事審判法九条一項乙類に掲げている事項の多くは、その性質上、家庭裁判所の本来の職責との関連からいつて、その審判に委ねるのが適当のように思う。

ただ、右に述べたように、民事事件と非訟事件との区別・限界が必しも明確でなく、時に非訟事件として取り扱うことによつて憲法違反の疑の生ずる余地があることを考えると、立法論として、これらの事項はすべてこれを家庭裁判所の審判に服せしめつつ――家庭裁判所も憲法にいう裁判所にほかならないのであるから――民事事件性の強い事項については、家庭裁判所自体に、公開・対審の原則を導入する方法を講ずることによつて、憲法八二条、三二条の要請を充し得るように配慮することが一策であると考える。

裁判官柏原語六は、裁判官田中二郎の右意見に同調する。

裁判官松田二郎の意見は次のとおりである。

(一)  私は家事審判法九条一項乙類三号に規定する婚姻費用分担に関する審判が憲法三二条、八二条に違反しないと解するのであつて、この限りにおいて、多数意見と見解を同じくする。

しかしながら、その理論的根拠において、私は多数意見と全く異る見地に立つものである。すなわち、多数意見は婚姻費用分担に関する家事審判とは別個に、その「審判の前提たる負担義務」の存否を終局的に確定するためには、公開の法廷における対審及び判決による訴訟の途が開かれていると主張し、かく解することによつて、右の審判が憲法の右条項に違反しないことを理由づけようとする。これに対して、私はそのような訴訟の途の開かれていることを否定するものなのである。私の見解によれば、婚姻費用分担に関する事項は、本質上、非訟事件に属するものであり、従つて非訟手続たる家事審判法の審判によることは、理論上当然のことなのである。換言すれば、本質上、非訟事件たるものを非訟手続のみによらしめても、何等違憲の問題を生ずる余地すらないのである。

(二)  思うに、夫婦の婚姻関係は、法律的であるとともに倫理的であるところの生活協同体であり、他の法域におけるよりも遙に高度に、法と道徳との二要素が密接に関連しているのである。このことは当然に婚姻の法律関係を特徴づけるのである。そして今や新憲法の両性の本質的平等の理念の下で、婚姻は夫婦相互の協力によつて、自主的に営まれることが期待されているのである(憲法二四条参照)。従つて、それは国家機関たる裁判所による訴訟的解決になじまない法域といえよう。たとえば、夫婦間の契約は婚姻中、何時でも第三者の権利を害しない限り、夫婦の一方からこれを取消し得ると規定していることも(民法七五四条)、夫婦間の契約に基づく争を訴訟によつて解決することは妥当でないとすることのあらわれである。また、旧憲法の下、現在の家庭裁判所の制度がなく、家事審判法の制定もなかつた時代には、「夫婦の同居を目的とする訴」を人事訴訟として認めていたが、この訴を提起し、勝訴の判決が確定しても、何等相手方に対して、直接にも間接にも、その履行の強制をする方法がなかつたことも(大審院昭和五年(ク)第八九〇号同年九月三〇日決定、大審院判例集九巻一一号九二六頁参照)、想起さるべきである。すなわち、この場合、国家機関たる裁判所は、夫婦間の「訴訟」に介入しても、終局的には何等その介入の効果を収め得なかつたことを示しているからである。換言すれば、人事訴訟としてかかる訴を認めたことが、無意味であつことを示すに外ならない。要するに、婚姻関係については、その存続を前提とする限り、裁判所はただ後見的立場において、これに関与するに止まるべきものである。ただ、婚姻関係を解消せしめようとする離婚については、訴訟が認められているのである。

叙上の理由により、婚姻関係に関する事項は、その存続を前提とする限り、裁判所は民事訴訟手続と異なるところの手続によつてこれに関与するに止まるべきである。しかして、本件のごとき婚姻費用の分担は、金員支払にも関するところがあるにせよ、それが婚姻という身分関係から生ずるため、一定額の金員の支払を求める通常の単なる金銭債権とは本質を異にする。すなわち、具体的場合における分担の必要状態と分担の可能状態とを考慮して、その分担額を決すべき以上、裁判所はその具体的態様を形成するについて、客観的真実に即することを必要とし、そのため職権探知が必要となる。かくて、そこでは弁論主義は行われないこととなり、また、婚姻費用の分担は夫婦共同生活のプライバシーにも関するから、その手続の非公開が要請されることとなる。しかして、これに適合するものが、すなわち非訟事件としての性質を有する家事審判法の前記審判である。

(三)  しかるに、既に述べたように、多数意見は「婚姻費用分担に関する審判の前提たる費用負担義務」という概念を構成し、その存否を終局的に確定するには、民事訴訟によるべきものと主張する。しかし、「夫婦が婚姻から生ずる費理を分担する」との基本的法律関係そのものは、民法七六〇条の明定するところであり、敢て再びこれを訴訟によつて確定することを要しないのである。しかし、具体的場合におけるその分担は、右条文の示すごとく、「夫婦の資産、収入その他一切の事情を考慮して」これを定めるのであり、家庭裁判所は右条文に則り、具体的事件につき、その具体的態様を形成するのであり、これが、すなわち婚姻費用分担の審判である。それは形成的作用を有する家庭裁判所のなす処分であり、これによつて、夫婦の一方の相手方に対する給付の内容が定まるのである。

しかるに、多数意見に賛成する横田(喜)、入江、奥野の三裁判官は、補足意見として、旧人事訴訟手続法(家事審判法施行法による改正前のもの)七条二項が「夫婦扶養の請求の訴」を婚姻関係の訴に併合し又は反訴として提起し得る旨規定していたことを、多数意見の理論的根拠として援用されるのである。

しかしながら、

(1)  婚姻費用の「分担」は、終戦後における親族法改正に伴うものであつて、旧人事訴訟手続法の全然知らない制度なのである。従つて、この分担の問題について、旧人事訴訟手続法の規定を援用するのは、適当でないと思われる。

(2)  旧人事訴訟手続法時代には、夫婦扶養の請求の訴は通常の民事訴訟によるべきものとされていた。それは現在のごとき家庭裁判所もなく、家事審判法もなかつた当時としては、止むを得なかつたからである。そして、旧人事訴訟手続法の右の規定は、当時、民事訴訟によつて行われていたところの夫婦扶養の請求の訴を、特に婚姻関係と牽連関係あるものとして、人事訴訟において併合し、または反訴として提起することを認めたものに過ぎないのである。換言すれば、当時においては、扶養に基づく具体的金員支払請求も、民事訴訟によることを原則としていたのである。

従つて、右の旧人事訴訟手続法の条文を根拠として、そのいうところの「審判の前提たる婚姻費用負担義務」について、これを「終局的に確定」するためには、民事訴訟によるべきであると主張するならば、単にその場合のみならず、婚姻費用負担の具体的請求についても亦、民事訴訟によるべきものとなるはずである。けだし、婚姻費用分担の抽象的義務のみならず、これにより生ずる具体的義務も、民事訴訟によつて終局的に確定されるべきものであるからである。思うに、右の旧人軍訴訟手続法の規定援用論は、婚姻費用の分担について、民事訴訟を不当に重視し、結局、家庭裁判所の審判を否定する見解に立つものというべきである。しかし、かかる見解の採るべからざることはいうまでもない。

(四)  さらに多数意見のいうような訴訟を認めるときは、きわめて多くの疑問を生じ裁判実務を混乱に導くのである。

(1)  もしこのような訴を許すならば、家庭裁判所の婚姻費用分担に関する審判に不服の者は、民事訴訟を提起するであろう(家庭裁判所の審判をまたず、その以前において民事訴訟を提起するものもあろう)。このことは、徒に民事訴訟を誘発することとなろう。

(2)  多数意見は、「婚姻費用分担の審判」とそのいうところの「その前提たる婚姻費用負担義務に関する民事訴訟」との関係を、いかに解するのであろうか。この点につき、多数意見のごとく民事訴訟を認め、これをもつて「終局的のもの」とするならば、右の審判は「終局的ならざるもの」といわざるを得ない。しかして、この見解に立つならば、家庭裁判所は何等固有の権限のないものとなる。けだし、家庭裁判所は単に暫定的の処分のみを行うに過ぎないものとなり、その審判は、常に民事訴訟によつて覆される可能性を有するものとなるからである。これは新憲法下で、家庭裁判所の設立された意義を理解しないものといえよう。

(3)  もしかかる訴が許されるとし、この訴訟において婚姻費用分担の義務なしとの判決が確定した後、その費用分担が可能となつたときは、多数意見はこれをどのように処理するのであろうか。けだし、既にこの点について、既判力が生じているからである。しかし、私のごとく婚姻費用分担について家事審判のみを認める見解を採るときは、その審判には既判力がないから、事情変更を理由として、その取消、変更を認めるに何等の妨げないのである。そして、夫婦間における婚姻費用分担の能力は変化する可能性がある以上、右の点からしても、その分担に関する事項が非訟手続の審判によることの合理的な所以を知り得るのである。

(4)  さらに多数意見は婚姻費用負担義務自体について民事訴訟の提起を許す以上、かかる訴を本案として、民事訴訟法上の仮処分をすることを認めざるを得ないであろう(旧人事訴訟手続法一六条参照。)しからば、それは果していかなる内容の仮処分なのであろうか。またそれは婚姻費用分担に関する家事審判規則五一条とは、いかなる関係に立つのであろうか。多数意見は、これらの疑問に対し答えるところがなければならないのにかかわらず、何等述べるところがないのである。

(五)  いうまでもなく、ある事項を訴訟事件とするか非訟事件とするかは、決して単なる立法上の便宜の問題ではないのであつて、実質上、訴訟事件たるものを非訟事件とすることは憲法三二条、八二条を回避するものとして、許されないのである。しかし、本質上、非訟事件の性質を有するものを非訟手続によらしめることは固より当然であり、何等憲法の右条項に反しないことはいうまでもない。しかして、叙上のごとく新憲法下における婚姻費用分担についての事項は、正にこれに該当するのであつて、その性質は非訟事件に属し、民事訴訟になじまないものである。現行制度は、すなわちこの本質に即して、その処理を非訟手続たる家事審判法に委ねているのである。多数意見はこの本質を正解しないものと思われる。しかのみならず、その理論的誤りの結果として、裁判運営上に多大の支障を生ぜしめるに至るものである。

要するに、叙上の点からして、私は多数意見の理由に対して反対せざるを得ないのである。

裁判官草鹿浅之介は、裁判官松田二郎の右意見に同調する。

裁判官岩田誠の意見は次のとおりである。

私も本件抗告を棄却すべきものとする結論においては多数意見と同じであるが、婚姻関係の存続を前提とする限り、夫婦は婚姻から生ずを費用を分担すべき義務を負うことは民法七六〇条の明定するところであり、離婚の訴若しくは婚姻無効の訴に理り婚姻関係の解消若しくはその不存在を確定することなく、婚姻関係の存続を前提としながら、夫婦の同居義務のみ或は婚姻費用負担義務のみの存否の確定を求める通常の民事訴訟を提起することは許されないと解する。されば婚姻費用の分担に関する処分は、専ら家庭裁判所の審判によるべきであり、又かく解したからといつて、家庭裁判所の右審判が憲法三二条、八二条に違反するものではないことは田中裁判官の意見のとおりであるから、これを引用する。(横田喜三郎 入江俊郎 奥野健一 石坂修一 山田作之助 五鬼上堅磐 横田正俊 草鹿浅之介 長部謹吾 城戸芳彦 石田和外 柏原語六 田中二郎 松田二郎 岩田誠)

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